奇貨居くべし(5) 【天命篇】  宮城谷 昌光著  中公文庫   02/6/3

 「色をもって人に事(ツカ)える者は、色衰えれば愛緩む、ときいています。いま夫人は 太子に事え、はなはだ愛されていますが、子がありません。いまのうちに早くご自身で諸子の なかの賢孝である者と結び、もりたてて嫡子としてご自身の子にしてしまうべきです。
 夫君が在世のあいだは夫人として尊重され、夫君が亡くなられたあと、子とした者が王となれば 、いつまでも権勢を失うことはありません。これがいわゆる。一言にして万世の利あり、というものではありませんか。」  呂不韋は切々と太子・柱(安国君)の正室・華陽夫人を説いた。

 意を固めた華陽夫人は、太子がくつろいでいるところをみすまして、さりげなく言った。
 「趙に人質になっている異人は、はなはだ賢明で、出入りする者はみな称めています」
 「わたくしは幸いに後宮に迎えていただきましたが、不幸にして男子にめぐまれません。なにとぞ 異人をわたくしの子として嫡子に立てて、わたくしの身をゆだねさせてくださいませ」

 「わかった」  太子は華陽夫人を従えてひそかに呂不韋を引見した。
 「なんじに異人のフを命ずる。時が至れば、かならず異人を秦都に召還する」 と太子はいった。 時が至れば、というのは、太子が即位すれば、ということである。
  (この後、異人は華陽夫人の母国・楚にちなんで子楚 と名乗ることになる)

   呂不韋は若い頃知り合った小環の遺児・小侶を屋敷に引取り、舞を習得させる。  小侶は、呂不韋を一目みるなり、男とはこういうものだと全身で感動し、奇妙なことに
  ーわたしはこの人の妻になる。   という声がしずかに湧いてきた。

 初冬のある夜、 「舞に神が憑くとおもわれますか」  細い声である。
 「ふむ・・・」  「では、神のご意志をお受けなさいませ」
 「受けるとは、あなたをけがすことだ」 「わたしは仲さまのために生まれたきたのです。 そうでなければ、母と共に死んでいたでしょう」 呂不韋は答えに窮した。
 あとで呂不韋はこの女が、  −身(ハラ)める有るを知る。
 すなわち妊娠したことを知った、と司馬遷は『史記』に書いた。(が、その一文は用心して 読む必要がある、と著者の宮城谷さんはいう。司馬遷の創作かもしれないというのだ)

   子楚の催す小宴で小侶が舞った。客は口々に賛辞を発し、宴の終了を惜しんで邸を後にした。 残った子楚は呂不韋と酒を酌み交わすうちに。
 「あの舞子をわしにくれぬか」 と、目をすえていい、名を尋ねた。
 「姫小侶か・・・、佳い姓名だ・・・」
 「酔うておられますな。酔語は朝露とともに消えます。君はやがて秦王になられる尊体です。 妾であっても、各国の名家から迎えねばなりません」
 「妾では、けっしてない」  突然、子楚は大声を発した。呂不韋は眉をひそめた。
 「はて・・・」   「正室とするーー」 子楚のこ抗言は呂不韋を哄笑させた。太古から いままで、王侯のなかで舞子を正室にすえた人はひとりもいない。
 「わしは酔うてはおらぬ。鬼神に誓って、小侶を正室にする。であるから、わしに譲ってくれ」
 「小侶を得るまで、何度でもくる」
 呂不韋は、顔をあげずに 「小侶はわたしの子を孕んでいます。それでも君は、正室になさいますか」
 さすがに子楚は口をつぐんだが、苦しげに
 「それでも、小侶を正室に迎えたい。小侶が産む子は、わしの子である」 と弱弱しい声でいい、退室した。

   正月に小侶が男子を産んだ。父である子楚はその子に 「正」とい名をあたえた。セイという音からその男子の名は 「政」とも書かれるようになる。後の始皇帝である。  

 3年後、ついに子楚は人質生活からのがれ、感陽にはいり華陽夫人の養子となり、太子の嫡子としての生活が始まる。 ちなみにこの年、太子・柱は47歳、子楚は25歳、呂不韋はは42歳、子楚の子・政は3歳である。

   昭襄王が亡くなり太子/柱が即位し「孝文王」となった。子楚は太子となり、華陽夫人は王后となった。
 しかし、この孝文王の正式な在位は3日間である。これほどのみじかさは古来類がないであろう。濱葬を終えた子楚は即位し 「荘襄王」となった。

 荘襄王は少なからず失意を覚えている。その失意の原因は、政にあるというより趙姫にある。邯鄲で最後に みた趙姫は心に浸みいるように美しかった。だが、10歳の子をもつ趙姫の容姿は、別れ際に あった切なさからは遠く、多少の蒙さと、ぬるさと、あかぬけぬものを感じさせた。
 −−趙姫を后にしてよいのか。   はじめて荘襄王は迷った。

 呂不韋は邯鄲から舞の師を呼び、管弦楽を使わない招魂の舞を、趙姫と女官たちに舞わせ、 そこに荘襄王を臨席させた。
 趙姫はよみがえった。舞う趙姫は綺靡をおさえているがゆえに、いっそう美しかった。幽玄の 美しさの中に生命力を灯していた。荘襄王は感動したらしく、涙を浮かべ、「あれには苦労をかけた」と、 つぶやくようにいった。それから、荘襄王は趙姫のために宮室を建てさせ、政を東宮にいれた。
   ほどなく立太子がおこなわれ、ついで趙姫が王后に立てられた。  呂不韋は丞相に任命され、「文信候」に封ぜられ、洛陽付近の十万戸があたえられた。
 丞相となった呂不韋は荘襄王を助けて秦を理想の国に作り直そうとまい進する。

 だが、荘襄王は35歳で急逝する。 呂不韋はは太子・政を即位させることにした。
 秦王となる政は、13歳である。(BC247年)

 呂不韋は多くの食客を抱え、究思の学林を形成する。かれらは呂不韋の志に遵って、
 「天地・万物・古今の辞典」というべき『呂氏春秋』の編纂に没頭し、ついにーー八覧、六論、 十二紀からなる計二十余万字の書を完成させる。
 国家の助けを借りず、呂不韋という個人が成した文化大事業であったと史記は述べる。

 ■ わずかな確立で大きな宝となりうる小さな芽、それを奇貨といった。
 公子・子楚を奇貨とみた呂不韋は、長い時間をかけ子楚を荘襄王として即位させるが、王の急逝によって 理想の国づくりは挫折する。

 ◆ 秦王・政が呂不韋の子供であったのかどうか、歴史の謎である。しかし、政が後に始皇帝を名乗り、 中国(中原)の統一を果たし、数々の改革を行ったことは、政・始皇帝が並みの人間ではなかったことを 物語っている。自分の真の父親が誰(荘襄王、呂不韋)なのか分からないというような人間としての大きな悩みが、 並外れた改革への原動力になったのかも知れない。。。